「アンコール遺跡」総集編①
正直言って、少し見くびっていたのかもしれません。こんなに、ものすごいスケールの建造物だとは、思ってもいなかったので、その全貌を目の当たりにしたときは、圧倒されてしまいました。 言葉が出ないってことは、ほんとうにあるんですね。豊かな水と、あふれかえる緑のなかで、目にみえない遥かな高みにまで続いているような、魂の深い部分を揺さぶりかえすような、その存在感。3日間有効な、40ドルの入場パスを購入したので、明日もあさっても、この至福の広大なみどりの空間を歩き回ることが出来ます。 生きているシアワセを実感しながら、いま、のんびりしたシェムリアップの街に戻って、同じゲストハウスの数人と、川辺の風景を肴にビールを飲んできました。タイ料理の親戚みたいなカンボジア料理の屋台めし、おいちい。きょう、すごいことがありました。アンコールワットの敷地の中で。イングランドから来ていた若いカップルの旅行者に、天使ウサギのことを、「それは、なんなのだ。そんなにかわいいやつの、名前はなんというのだ?なぜ、写真をとっているのだ?さわらしてくれ」とかなんとか、とくにエリザベスとゆう、19歳のおんなのこの騒ぎかたが、はんぱじゃない(笑)ついに彼らにねだられて、このふたりがいっしょにウサギさんと記念撮影まで、してしまうことに・・・。(この写真、なかなか雰囲気がいいので、帰国したらUPしますね)彼らも、天使うさぎの写真がもっともっと見たいというので、はるるのホットメールのアドレスを教えておきました。自分たちの写真も添付メールで欲しいので、必ずHPにもコンタクトしてくれるそうです・・・ あ、でもHPは日本語だけだあ(苦笑)どうしよ。うさぎさんの人気も、国際的になってきました☆////////////////////////////ここで、タイ南部のピピ島からのメールと、今夜のはるるのお返事の一部、です。>>こんにちは。>メールありがとうございます。>4、5日プーケットに行っていて、留守してました。>はるるさんは、もうタイにいらっしゃるんですね。>今どちらでしょうか?>PPは、お天気は、今ひとつですが、のんびりと雨のPPを楽しみにいらっしゃいますか?>今回は、XXXXの方にも行かれるんですね。こちらまで来るお時間があるでしょうか?>前回お会い出来なかったので、お会いできるといいのですが。>ラーも元気にしております。この時期商売(ダイビング)の方はぼちぼちですが、>その分、勉強のほうに力を入れているようです。>私は、相変わらず、のぉんびり、たらたら過ごしております。>それでは、また。>はーい、いまちょうど広大なアンコールワットを歩き回ってきたところです。9月26日には、バンコクに戻るので、その足でそのままクラビにフライトしちゃえば、けっこう楽ちんな日程かも・・・なんて(笑)もしピピに行けそうだったら、ゆかこさんとこからTELしますね。と言っても、もう1年ちかくも美しいみちよさんのお姿を拝見していないので、ぜひ都合をつけてピピにも連泊したいなあ-.カンボジアの夜をリラックスしてる、あなたのはるるよりみちよ&らー、さんへ昨夜は、十七夜(いざよい、でしたっけ?)……昨夜は、十七夜(いざよい、でしたっけ?)の月のアンコール・ワットでした。閉鎖される時間は7時なので、夜景も見られるんです・・昨日の夜は、インターネットのあと、マッサージのはずだったんだけど・・・。ここのカフェのオーナーのお兄さんが、隣りの家でやってる仲間たちの宴会に誘ってくれたので、迷わずそっちに行ってしまいました。カンボジアのおにいさんおねえさんでも知ってる歌を、歌うことになってしまったはるる、「すばる」は定番だとしても、もう一曲は「ドラえもん」になっちゃいました。例の、あんあんあん、とってもだいすき・・・って、ヤツですねえ(笑)みんな手拍子しながらビールを飲んで、けっこう盛り上がった国際交流(笑)でしたよ。もちろんみんな、おごってもらっちゃいましたけど。今日は、夜明けのアンコールを見るために、5時に起きてバイクタクシーにのって遺跡の中で朝焼けを体験しました・・・。夜明けと日没を目当てに来る観光客の数も、相当なもの。なので、職員たちも、それに対応しています。早朝から、暗くなるまで・・。 そのあと、宿に戻ってから、シャワーなど浴びて出直して、1日中アンコール・トムを始めとするアンコールワット周辺の数々の寺院と遺跡めぐり・・・。感想は・・、ありすぎるので写真といっしょにあとでゆっくりと、ね。あちこちで野生のおさるさんたちと、野生のような地元の子供たちが、げんきに跳ね回ったり、泳いだりしてました。なんだか、いろいろ書き忘れてるような気がしますけど、歩き回り過ぎて、さすがにくたびれました。(心地よい疲労感、ですけどね)明日の午前中に、みんなに出す絵葉書の買い出しをオールド・マーケットあたりでするつもり。今夜は何故か、焼き餃子とビールの夕食。たっぷりと身の詰まった、ボリュームのある餃子が、10個で一人前でUS1ドル。しかも、ライスは食べ放題!宇都宮餃子とは、ちとちがうけど(笑)これもまた、なかなか本格的で手作りの皮も、もちもちしてました。ああ、今夜も爆睡眠しちゃいそう!!・・・・・それにしても。なんか、かんじんのことを書き忘れてる気がする、はるる。思い出せそうで、思い出せないなあ、くくく・・・。カンボジア、お別れの日になってしまった・・・ひとびとが、素朴。こことくらべると、タイのひとたちのほうがきついと感じられるくらいに・・。わかいおんなのこたちも、ほとんどすっぴん。カンボジアを訪れるツアーなどの観光客は、ほとんどの支払いを米ドルで要求されます。この国のひとたちは、まだまだ自国通貨を信用できてないのかなあ(笑)フリーの旅行者たちは、もうちょっといろんな通貨を使用しますけどね。最初に泊まった宿「スイート・ドリーム・ゲストハウス」は3ドル。そのあと、連泊した「ポピュラー・ゲストハウス」が、ひとり2ドル。空港から宿までのバイクタクシーが、20分ほど乗って1ドル。次の日、日の出から日没まで、アンコールとその周辺の遺跡を、バイクの運転手と二人乗りで走り回った、まる一日のチャーター料金が7ドルで、次の日の別のバイクの一日拘束のチャーター代金が5ドル。これって、こちらでは結構すごい稼ぎのほうに入るらしい。 最後の日は、自分でゆっくりと好きな場所をお散歩したかったので、自転車を半日借りて1ドル。朝食後、すぐから自転車で川沿いに走りまわったので、部屋に戻ってシャワーとビールを午前中から!(笑)すっかり、お気に入りになってしまった焼きたてのフランスパンのオープンサンド(25円)を食べながら、地元のアンコール・ビール。んまい。 昨日までは、バイクタクシーを借り切っていたので、通り過ぎるだけだった場所のあちこちに寄り道しちゃって。小学校の校庭では、生徒たちにまざって、かき氷の屋台に行列しました。(12円)これも、毒々しい色付きで、おいちいぞ。 午後4:20のバンコク・エアウエイズでタイに戻り。この日記のつづきは、バンコクから・・・だな。きっと。・・・だったんだけど、バンコクに着いてから買い物したり、あやしいゴーゴーバーで酒を飲んだりしたあと、古式マッサージしたら、もう夜中の12時過ぎちゃった・・(笑)ネットカフェに行く時間、全然無かったよん!おまけ☆最新映像↓カンボジアの橋の上~ちいさなともだちカンボジアに忘れ物してったひとたち☆ぼくは旅先でもフリマを見つけるとよく覗きます。あと、床屋サンで髪をカットしたり・・古式マッサージしたり・・・すると、異国にいてものんびり、リラックスしちゃう♪ 移動したり、観光したりじゃなくって、ひとつのところに留まって時間を止めていると、非日常の旅の途中の世界が、ぐぐっと手元に引き寄せられて、日常に近くなる。一人旅の、世界じゅうから切り離されたような違和感が、とたんに消えてしまって、自分の外側の異国じゃなくて、ゆるゆるとやさしい内側の世界に変換してしまう♪ 世界じゅうで、みんな何処でも似たようなこと、やってる。上り坂の国家と、過去の栄光にすがる落日の国。それだけじゃなくって、原因は実にいろいろ・・・。南北問題は、先進国と開発途上国(←この言い方、あまり好きじゃないケド)だけじゃなくって、あらゆる国の近隣諸国同志で発生してる。学校生活だって、同じクラスでも、みんな仲良しにはなれないし、隣りのクラス同志のつきあいだって結構むずかしかったりする。主婦同志、同じ職場同志だって同じく、派閥をつくったり、ねたんだり、裏切ったり。にんげんって、進歩が無いよなあ・・。 ↑天使うさぎが乗ってるこのリュックは、一人旅のカナダ人女性のバックパッカ-のもの。アンコール回廊の西北側で、西の空を望む。ここでも、おっこちないように必死になってる高所恐怖のうさぎさん。(だれだろ、こんなヒドイ目に合わせてるのは・・?!)アンコールワット観光自由化で、一見、平和に繁栄してるかに見えるシェムリアップの街だけれど、この付近からポルポトの残党が一掃されたのは、まだそんなに昔のことじゃない。アライモノさんが言ってた、山の中の川に沢山の彫刻がある聖地は1999年の春に、やっと戦場じゃなくなって一般者が自由に巡礼出来るようになったばかり。ゲリラの本拠地もあって、とても近づけない場所だったのだ。下手に細い枝分かれ道を進んでしまったりすると、地雷もまだまだ残ってる。観光名所や、街のオールド・マーケットなんかには、必ずと言ってもいいくらいに、地雷で両足を失った人などが物乞いする姿が見られる。片足になって、義足で歩いてる人も、注意して見てると、けっこう居る。みんな、片足くらいでは日常に差し支えなく、スムーズに歩いてるからぼんやりしてるとワカラナイ。 ↑カンボジアと言う国での、誰かのわすれもの・・・それより、あまりに日常的だったので衝撃的だったのが、子供達が元気に集団で遊んでる姿だ。ときどき、肌の色のやたらに白い子や、ブロンドの髪をしてる子なんかが混じってる。別に、みんなと一緒になってはだかんぼになって、川に飛び込んだりしてるのはまったくの地元っ子と変わりない。みんなと同じ様に、貧しい格好をしてるけど、顔立ちは白人そのもの、だったりしてる。アンタック?だっけ。国連の平和維持軍。ここ、シェムリアップには、けっこう長い間駐屯してたみたい。その兵士たちが、現地のカンボジア女性との間にこしらえて、そのまま置き去りにして行ったワスレモノ。日本人の自衛官や警察官との間にも、同様のケースがあって、週刊誌ジャーナリズムなどがニュースにしたことも、あった。みんな、忘れてるけど。沢山の外国人の兵隊さんがこの街で、完全武装で平和を維持しなきゃならなかったのは、ついこの間、だったのだ。アンコールと、その周辺の素晴らしい無数の遺跡たちは、東京23区ほどもある敷地に、変ることなく聳えている。 ↑夜明け直後、アンコールワット最上部の、東北の角の回廊で。高さにビビってるうさぎさんの向こうには、背後のジャングルが広がってます・・。 **** ****「カンボジアでの、わすれもの」・・・この、いちまいの写真をUPしたくって、日記の一部を再録しました。シェムリアップと、その周辺のアンコール遺跡群は、2002年現在観光客が押し寄せて、その治安は首都のプノンペンより良いくらいです。////////////////////////////////////////////////////////ここからは、おともだちの「らったなー」さんの文章です。(ご本人の了解を得て、レポートを転載させてもらいました♪)<アンコールの子供たち>1996年にアンコールワットを訪ねた。1993年にPKOが終了し、それから2年後、まだ内戦の傷跡もさめやらぬ時であった。ガイドブックもほとんどなく、カンボジアの情報をほとんどもたずに行った。ベトナムからプノンペンへ飛行機で行ったのだが、雨季のため見渡す限り水であった。湖?と思ったが、所々、屋根が見えた。田も家も洪水で水に埋もれているようなかんじだった。 プノンペンの町は、ラオスの首都ヴィエンチャンを少し大きくしたようなかんじだった。ラオスとカンボジアは、同じ宗教であり、文化もにている。そして、フランスの植民地であったことも影響しているのだろう。びっくりしたのが、プノンペンの町が意外にきれいだったことである。きちんと整備されていた。内戦の傷跡がまだ感じられたが、それでもこんなにきれいな町。内戦がなければ、もっと発展していただろう。まだ治安は悪かったが、プノンペンの町はとても好きになった。ツール・スレーンは、学校を拷問場として使った所である。せまい牢屋。鉄鎖。床にはまだ血の跡があった。一番驚いたのが、壁一面に、人の頭蓋骨で大きなカンボジアの地図をつくってあった部屋である。カメラをむけることもできず、ただ立ちすくんでいた。どうして、人はここまで残酷になるのか、、、いたる所に物貰いがいた。手足のない人たち、、、うつろな表情で、いきる希望も失っていたのだろう。自分が何十万というお金をだして、ここにきていることがなんだかとても複雑だった。雨上がりのアンコールワットは、すばらしかった。観光客もほとんどいなかった。しかし、アンコールワットや他の遺跡に行く道のいたるところで銃をもって検問を行っていた。1ヶ月前に旅行者が殺されたため、アンコールトムやいくつかの遺跡は銃をもった警察、兵士?の護衛つきであった。今はそんなこともないらしいが、、、そして、その遺跡をまわっている間、ずっと子どもたちがついてまわった。ガイドして、チップをかせぐのである。バスで移動しているはずなのに、次の遺跡へ行くと、もうその子どもたちが待っていた。どうやら、近回りをして、走ってきているらしい。「ここで写真をとるといいよ。撮ってあげる。」と、とても親切。日本語担当の子や英語担当の子、タイ語担当の子、なかには何ヶ国語も話すことができる子もいた。学校に行って、語学を学んだわけではない。プロのガイドと観光客の話を聞いて覚えたり、観光客と話すことによって言葉を覚えていくのである。しかし、ある子に「いくつか?」と聞いたら「わからない」と言っていた。学校にも行っていないとのことであった。何ヶ国語も話せても、自分がいくつか知らなかった。「チップ、チップ、チップ。」としつこいくらい言われるけれど、彼らもしっかりガイドしてくれたはず。(けっこう本格的)あんまり高額をあげる必要はないけれど、ガイドをしてもらったのなら、少しくらいのチップはあげてね。(聞くだけ聞いて、チップもあげないケチな日本人がいた。)それがいやだったら、最初からガイドを断るか、無視。1997年ふたたび内戦勃発。これはすぐに落ち着いた。今も決して治安が良いわけではないけれど、カンボジア。もう一度、訪ねてみたい国である。 このレポートを書いた「らったな-」さんの、『ラッタナ-』とは、ラオスの言葉で『宝石』を、意味しているそうです。ステキなHNですね。はるるが、生まれて初めて出来たタイの友人の名前も「ラッタナ-・ラシャナロン」という名前の、ちょっと目には女子高校生にしか見えないような人妻、でした。ご主人は警察の若手幹部で、そのときは東京大学の法学部に国費留学中のようで。ラッタナ-さん本人は殆ど独身生活と同じ状態。1986年当時は、プラティ-プさんの下でクロントイ・スラムでの幼児教育のボランティアに精を出している最中、だった。その忙しい合間に、生まれて初めてのバンコクを食事も名所も学校も、案内していただいた。東北部イサ-ンのサコナコ-ン出身の、このひとのおかげではるるのタイ人に対する印象は決まったようなもの、なんです。このタイのラッタナ-さんに関しては、写真なども添えて、いずれ詳しく紹介しますね。なんせ、エア・インディアが成田からバンコクへ行くのに、香港経由だった時代の話、ですけど(笑)////////////////////////////////////////////////////////話が、どんどんジャンプして読みづらい日記になってしまいましたあ。おごめんなさ~い。そして、ここまで読んで下さったかた、どうもありがとう…